1992年6月3日(水) 産経新聞

1992年6月3日(水)産経新聞[PDF:480kb]

ぬくもり、雄大さ持つ作品

自然と人間一体の生活に感動

心のシルクロードを描いて

明石の画家 吉永邦治さん

二十年前からシルクロードを旅し、人々の暮らしや風景をがいている兵庫・明石市の画家、吉永邦治さん(四七)。若いころ西洋美術で感じた行き詰まりをシルクロードが解決してくれたという。画家の目に映ったシルクロードについて聞いた。(石井 敦)

吉永さんは、鹿児島県川内市の出身。絵が好きで、小学校六年のころ、油絵を始めた。二十歳で東京美術専門学校を卒業。二十三年前の二十四歳のとき、ドイツに留学し、建物の外壁用タイルなどを作っている陶芸家、ロッテ・ロッシェリさんに師事。絵、建築、陶芸など西洋美術について幅広く学んだ。
「ロダンやピカソより偉くなろうという気持ちでいっぱいでした。しかし西洋の絵画は構成的、論理的で、立体感を持たせるデッサンの方法や光の表現方法など学ぶことがいっぱいあって、それを身につけなければ認められない。そこに自分を殺さなければならない息苦しさを感じました」
その二年後、帰国の途中にインドに立ち寄ったのが、シルクロードとの出合い。約三ヶ月間、ヒンズー教の聖地、ベナレス、仏教遺跡のアジャンタなどガンジス川沿いに各地を歩いた。
「ヨーロッパでは、人間だけが集まって都市をつくっているのに、インドは人間と動物が一緒に生活している。自然と人間が一体となったようで、素直な自分に戻れる気がしました」
美術でもそれは当てはまる。西洋では、自分が作ったことを誇示するかのように、作品に作者のサインが入っているが、仏教遺跡の彫刻など東洋の作品には、それがない。「自我を超えた民族全体としての意思を感じました」
これは、その後の吉永さんの作風に大きな影響を与え、「こういうふうにかきたいというところから出発するのでなく、たとえば川の前に立ってさわやかさを感じ、川とはこういうものとイメージしたら、それを十年ぐらい蓄積して、出来た作品は、まったく川とは違う」というようなかき方をするそうだ。
実際、吉永さんの作品は、簡略化された大胆な線で人物や風景を描き、遠近感などはあまりないが、ぬくもり、雄大さといった“感じ”がよく伝わってくる。色は、油絵の具やパステルを使いあっさりしている。水墨画のような作品も多い。
インドから帰国後、仏教美術を研究するため、和歌山・高野山大学に入学。三十一歳までの五年間、昼は大学で学び、夜は絵をかくという生活を続けた。入学以降もインド、チベット、パキスタン、中国、モンゴル、東南アジアなどシルクロードへの旅を続け、これまでに各三週間-一ヶ月、十数回旅した。
最近は、団体旅行などでも行くが、最初のころは、シルクロードがブームになる前で、リュック一つの一人旅。野宿したり、大きな農家に泊めてもらったこともあった。言葉は、英語とチベット語とサンスクリット語を勉強しただけで、通じないことが多かったが、絵を描くことがコミュニケーションに役立った。
「一番印象に残ったのは、ガンジス川ほとりでの火葬。現地の人に聞くと、人間が焼かれると、煙になって雲に入り、雨になって落ち、植物に入る。それが男性から女性に入って、また子供になるという。そういうものを見ていたら、自分が巡り、巡っているものの一つではないかという気がしてきました」
インドでは、飲み物の器が全部素焼きの土器で、一回飲んだら捨ててしまう。雨が降ったらすぐに土に帰り、焼き物でさえ、永遠に形を残さない。食事も木の葉の上に置いて食べ、日常生活のあらゆる面にそういうライフスタイルが染み込んでいる。
「日本は、どこか生き方に迷っている。シルクロードの人々の生活は、われわれの生き方を見直す参考になるのでは」
また、おびただしい数の仏像を彫り込んだアジャンターの石窟寺院(紀元前二世紀-八世紀)をつくるのに使われた鉄のノミが、もとは一メートルぐらいあったのが、十センチほどになって残るなど、民族の強い意志を感じたそうだ。
さらに、いたるところの壁画に真珠が多く描かれ、遺跡から出土した王の装飾品にも真珠が使われるなど海への憧れが感じられる。正倉院の宝物の唐草模様も真珠を表したもので、東西文明の交流を肌で感じたという。
「華厳経の中に『雑草の中に宝あり』という言葉があり、薬の王様から見ると雑草も薬であるという意味ですが、一度自分を捨てて西洋人になろうとした私が、シルクロードによって自分の中に”命”という宝があることがわかりました。私の絵は、命の日記帳です」と話している。

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