吉永邦治さんの絵の世界
杉 山 維 敏
振り仰ぐと小さな現代画廊の看板があった。銀座の裏通りの一角に現代画廊があるとは聞いていたが、こんな古いビルにあったのか。探し物を見つけたような気持ちで、暗い階段を三階の画廊にむかった。ドアーを開けると壁いっぱいに並べられたデッサンが目に飛び込んできた。ドアーの脇に「鳥」が乱舞している小品のデッサンがあった。それは直感的にインドの河の風景とわかるものであったが、狭い室内を何度も見渡すと、正面の壁に掛けられた唐招提寺の金堂を描いたデッサンが心をとらえて離さなくなった。だがよく見れば唐招提寺のデッサンにはすでに赤丸が付いている。やがて他にも次々と心を揺さぶる作品が目に入ってくる。箕面公園で出会ったという怖い顔の猿もいい。大阪や京都の町並みもいい。インドの風景には独特な静けさがある。さあ困った、どれにしよう。翌日再び画廊を訪れ、やっと決めたものは入り口脇の芳名帳の上にあった「サヘトマヘトにて」と題する大判のデッサンであった。
初めて入った画廊ですっかりその気になって絵を購入してしまった。だがその当時、私は失業状態だった。いい気なもんだと思われるだろうが、やりきれない毎日の中で就職する前に絵を買って、なんとか心を満たしたい気持ちでいっぱいだった。そんな切ない気持ちに答えてくれたのが吉永さんの絵であり、吉永邦治さんとの出会いであった。それから約一年後、私は洲之内徹さんのもとで現代画廊に勤務していた。正味点が変わったのだろう。古美術の雑誌の編集業務に携わり、古陶磁や仏教美術に開眼し、より日本的な美しさに惹かれるようになった今、私自身が吉永さんの世界に日本的なものを望めなくなったのだろうか。日本的と書いたものの、具体的にどんなことを意味するのか本当はよく解っていないのだが、私か吉永さんの絵の世界に感じる日本的なものとは、関西の風土や情緒、さらに都はるみや天童よしみの歌の世界に通じる大阪の心みたいな世界なのである。
現代画廊で催された数回の展覧会には大阪や京都、岸和田といった街の風景が沢山あった。そこに漂うのは大阪暮らしの哀歓であり、あるがままの日々の暮らしの表情であった。歌に出てくる女や男がそこの横丁を曲がった先のアパートに暮らしているような、大阪暮らしを知らない関東の人間にも伝わってくる生活臭が描かれていた。現代画廊の二回目の展覧会に出品されたもののなかに「法善寺横丁」と「春」と題したデッサンがあったが、あの界隈の喧噪と街の彩り、そしてストリッパーとおぼしき女人の赤い腰巻きがまさに春を漂わせた、いずれも忘れがたい秀作であった。また文楽に取材した「本朝二十四孝」のシリーズや大阪城の御所人形、古いレンガ造りの中
之島の公会堂、そして二度目の展覧会の折りに購入した「彼岸花」などには対象だけを真摯に見つめて描ききった存在感とみずみずしさがあった。
しかしよく考えてみれば、画家も陶芸家もいつまでも同じものを作り続けているわけではない。様々な傾向や表現上の変化は当然のことである。だから吉永さんの絵が出会った頃に比べると遠く、離れたものに一年に満たないものであったが、両家というもの、絵を見ること、味わうこと、絵がわかるということがどんなことなのか、洲之内さんの絵をとらえる目を垣間見ながら同時に、自分の目で絵を好きになるということが解りかけてきたのだった。
当時、吉永さんは三十代前半の若い画家であった。今にして思うが、この人の話にはどこか浮き世離れしたところがあって、中学生の頃、友人と鹿児島の海からボートで沖に漕ぎ出し外国に行こうとして大騒ぎになったとか、高野山の山上やヒマラヤで眺めた星の美しさ、高山病で苦しんで吐いていた時、通りすがりの少女が背中をさすってくれたコスモスの花畑の思い出、そして酸素マスクなしで高い山路を越えて寺院に辿り着けたのは仏様の加護を受けて守られているおかげだと、また僕は銀河に漕ぎ出す船の舵取りでみんなを天上界に導きたいともおっしゃった。ましてインドやシルクロードの聖地の話になると、宗教上の奇跡が説得力をもって甦ってくるのだった。私たちがいつもは忘れている神秘なロマンが呼び覚まされるのである。
あれから二十年以上の歳月が流れた。絵好きが高じて大阪の住吉のお宅まで押しかけたこともあった。そのうち私か現代画廊を飛び出して、三十一歳になった頃、生きていくことにどうにも行き詰まって、絵好きなどと言ってはいられなくなった。それでも年賀状や個展の案内状を毎回いただくたびに申し訳ないと思いつつ、何となく出会った頃のときめきや、絵にむけての探求心が弱ってきている自分を感じるのだった。なぜだろうと思いつつ再び東京の展覧会で久しぶりに作品を拝見したが、私の見る視点が変わったのだろう。古美術の雑誌の編集業務に携わり、古陶磁や仏教美術に開眼し、より日本的な美しさに惹かれるようになった今、私自身が吉永さんの世界に日本的なものを望めなくなったのだろうか。日本的と書いたものの、具体的にどんなことを意味するのか本当はよく解っていないのだが、私か吉永さんの絵の世界に感じる日本的なものとは、関西の風土や情緒、さらに都はるみや天童よしみの歌の世界に通じる大阪の心みたいな世界なのである。
現代画廊で催された数回の展覧会には大阪や京都、岸和田といった街の風景が沢山あった。そこに漂うのは大阪暮らしの哀歓であり、あるがままの日々の暮らしの表情であった。歌に出てくる女や男がそこの横丁を曲がった先のアパートに暮らしているような、大阪暮らしを知らない関東の人間にも伝わってくる生活臭が描かれていた。現代画廊の二回目の展覧会に出品されたもののなかに「法善寺横丁」と「春」と題したデッサンがあったが、あの界隈の喧噪と街の彩り、そしてストリッパーとおぼしき女人の赤い腰巻きがまさに春を漂わせた、いずれも忘れがたい秀作であった。また文楽に取材した「本朝二十四孝」のシリーズや大阪城の御所人形、古いレンガ造りの中
之島の公会堂、そして二度目の展覧会の折りに購入した「彼岸花」などには対象だけを真摯に見つめて描ききった存在感とみずみずしさがあった。
しかしよく考えてみれば、画家も陶芸家もいつまでも同じものを作り続けているわけではない。様々な傾向や表現上の変化は当然のことである。だから吉永さんの絵が出会った頃に比べると遠く、離れたものに思えても仕方がないことなのである。この人の魂のルーツはシルクロードの古い国の僧侶かもしれない。そんなことがふと思われるほどに、吉永さんは中央アジアの聖地を絵筆とともに遊行している。
もう一度、もとの大阪や関西の風土に戻れと言ったところで意味はないかもしれない。だが長い旅路の果てにたどり着く故郷はやはり日本であってほしい。再び日本を表現されたとき、それはきっと日本的な味わいを軽薄に描いただけのものにはならないはずである。大阪の街や文楽の世界が醸し出す雰囲気や情緒、そして現代の仏画を表現出来る画家として生きてほしいのである。吉永さんのような画家の仕事にはやはり日本の文化の表現に通じるものがあると思うからである。