行動の美学
吉永邦治氏の画業に思う
伊 藤 浄 厳
吉永邦治氏は学者であり、文筆家であり、旅行家である、そして、何よりも画家である。端的には、行動の芸術家、行動の画家と言うべきであろう。
氏は、両業こそ芸術の綜合態、あるいは結晶だと確信されているに相違ない、この確信が、氏を行動に駆り立てるのだ。かくて氏は、文芸であれに工芸であれ、芸能であれ、音楽であれ、哲学であれ宗教であれ、画業を豊饒にすると思われるものには、並べて貧欲と言えるまでの旺盛な好奇心を示される。そして、並外れた行動力をもって、それらの根源を探り、その精華を吸収されている、しかも、それは机上の推度ではない。思い立てば、いち早く行動に移し、現地に赴いて、物そのものを自らの審美眼で確認し、自らの芸術観で認織を新たにされている。氏が飛天を求めて、遥かシルクロードの果てまでも、至難の旅を敢行されたのは周知の通りである……
古往今来、至高の価値は真・善・美にありと信じられて来た、だが、今日では、真と善とはもはやその本来の価値を失い、美のみが唯一の価値となりつつあるやに思われる。だが、我々は、この世間における美の源底に、あるいは美の限界を突破したところに、出世間の聖(浄)なる宗教的世界が存することを忘れてはならない。しかも、その聖なる世界が美の価値を包摂的に生かし、成り立.たせていることを知るべきである。さすれば、氏の功は美を尋ねての行動であり、求道の行履とも言い得る。
思うに、美は物において顕在する。いわば、物こそ美の実相であり、美の実体の具象である筈だ。換言すれば、物なくして美の実体はあり得ず、物を見ずして美の認識はあり得ないということだ。されば、物を実見するということは、美の本質を覚知する手立てに他ならない。
氏の行動は、生新の気を孕み、よく美の本質に迫る底の意味を持っている。氏にあっては、今後とも行動を美の証しとされて、その画業において行動の美学を確立し、新たな画境を完成されんことを切に冀う者である。
和 南 (摩耶山天上寺貫主)