墨彩の夢

墨彩の旅

墨彩の夢

吉 永 邦 治

ベッドの上に身体を委ねていると、いつのまにか、夢のなかを私は彷っていた。その夢も水びたしであり、母親の胎内にいて、羊永のなかにポッカリと 浮かんでいる様子であった。誕生の日を迎えたであろう。頭から聖水をバァーとあびせられた時、眼がさめたのである。かすかに、遠くの方で人の声がする ド ドドット、上からたたきつける水、滝のような所に、足をくの字にして坐っていた。
夢の中に出てくる羊水も、滝を流れおちるのも水である。しかし、この豊かな水も、ひとたび悠り狂うと濁流とかし破壊する。
この事実をとって、これは地球が水あびをしたから起こったとか、また、地上に生をうけて、地球上に生きていくなかで、身体に溜まった人間の欲望や心の塵を雨水は、洗い流して再生をもたらしてくれるという宗教的な意味あいで説明されるようなものでない。
古来の人びとが、大雨に対してうらみや、怒りの感情をもったとしても、ひとつも雨水にとっては関係なく、その気持すらとどくまい。ひとたび降りはじめた 雨水は、人間がつくった文明などあっというまに、のみこんでしまうほどの力をもっている。先頃、中国の長江が、上流に降った雨水により氾濫し、一〇〇〇人 の人びとが死亡したと報道されている とにかく、降りはじめたら、降り終るまで降るのが雨であり、人間も、植物も動物も区別して降っているわけではない。
水とともにある地球は、刻こくと変化し、姿やかたちを変えて生きている存在なのである。これが、自然の摂理や真理たと悟らなくても、晴れのあとは、曇り、曇りのあとは雨が降り、また、いつの日にか晴れるのである。
私にとって、水の夢は、偉大なる大自然の真の姿を知る切掛となり、人間の力をこえた大いなる存在であると実感した。ましてや、自分自身の身体を流れつづ けている水、今こうしてメモ前にあるコップに入った水、墨の水、インダス河の水、ガンジス河の水、メコン川の水、黄河の水、長江の水、明石川の水などすべ て地球を循環しているのが水であり、生命の源である。

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