風に吹かれて気のままの旅
飛天の旅
飛天夢想
吉 永 邦 治
鈴をガラン・ゴロン・ガランと鳴らしながら歩いているラクダの隊商が、砂漠を横断している夢のあとをたどって、ユーラシア大陸を旅すると、悠久の大地をゆっくりと、ゆったりと、ただひたすら、もくもくと喜びをもって遊牧生活をし、移動している民に出会う。
私は、行った先ざきで、興味をそそられるものを眼でみるというより、肌で感じ人間のなつかしい臭いを求めてさまよい歩くといえばいいのか、旅先では思わぬ出会いがまちうけている。
それは、絵を描く場合も同様で、全体的に構図をきめて計画的に描きはじめるのではなく、白いキャンバスに向かいあい、この中で、イメージされたものを描きこむ。
とはいっても、無垢の下地に、いとも簡単に、その形姿が浮き上がってくるのではない。七~八年もの時間をかけて、何度も何度も、絵の具を塗り重ね削り落としていく内に、おぼろげながら、その存在がみえてくる場合もある。そうかといって、何年もの時間をかければ、すばらしい作品ができ上がるというものでもない。
美の女神しだいであるといってもいいのかも知れない。ほんの瞬間に完成する場合もあり、そう描きこむこともなく、余白を残しながら完成にいたる場合もある。どこからが未成で、どこまでが完成か、これも美の女神の胸一寸のところできまるというきまぐれなものである。
こういってしまえば、身も蓋もない話しであるが、文楽人形の木偶のように、人形遣いの手の内に、木偶の命があるようなものである。自分自身が絵を描くというより、どこに何を描けばいいのか。絵の方から教えられ、引きこまれて描かされるといった方が正直である。まさに、美の女神によって、なされる創造物であるとしか説明しえないものであろう。だからこそ、出来あがった生きた作品からは、不思議と自然と同様に、いい風香がたちこめている。
いい風香がたちこめているといえば、東洋各地の遺跡に描かれている飛天からも、なんともいえない香りというのが、たちこめていて窟全体に広がっている。一方、現地において模写されている飛天を見ても、この風香がたちこめてこない。やはり当時の両家達は、悠久なる魂をもって精神的に生きて描いていたのであろう。私が、過去数十年にわたって飛天をおいもとめ研究し続けているのも、ただ壁画に描かれているというたけのものではなく、飛天の生きた息づかいが感じられるからである.それは、幾多の歴史を越えてきたにもかかわらず、生命力をもって飛翔している、私にとって飛天は、ひとたび天界から地上に向かって飛翔すると、心の中に安らぎと恵みと希望などをもたらし、人間の失いかけている夢想世界をイメージさせてくれる。飛天の世界は、言葉に言い表せないほど、広がりと深さをもって、私に語りかけるのである。