シルクロードと上六と、 あの雲たち

シルクロードと上六と、
あの雲たち

金 田 宏 司

吉永先生の絵を眺めるたびに、なにかおもしろい、不思議な感覚を覚える。きっとそれは、先生の絵に描かれているあの雲のせいではないかと思う。そして、先生の絵を見るたびに思い出される感覚がある。
私は何度か遊びや仕事でヨーロッパに旅したことがあるが、あの飛行機で体験する感じだ。まず、離陸する時。空港までのタクシーのなかの、クーラーの冷気にまざったタバコの臭い、空港あたりの赤や青の広告の看板の文字、落ち着かない子供をなだめようと汗だくになったお菓子を買い与えるおばあさんの苛立った顔、コーヒースタンドのカレーライスの匂い、はがれかかった横断歩道のペンキや、排気ガスの熱気で蒸せかえるコンクリートの匂い、そういった自分の属する、体感する世界から一気に引き離される。離陸前から新聞など読んで、飛行機が滑走路を離れるときでも平然とした感の旅なれた人の横で、いつまでも冷気で冷たくなった窓に顔をへばりつけて下界を見てしまう。ビールやワインのアルコールがたしかにドクドクと音をたてて胸のあたりや首筋を流れ出す頃には、分厚い窓越のはるか下界の、音も匂いも人の気配も感じられない中国や中火アジアの山脈、砂漠を見て、こんなところにも私や私自身の俗する世界とはまったく関係ない人が、大昔から、そしてたった今この時も、なにか考えていたり、何も考えていなかったり、歩いたり、座ったり、大声で何か叫んでいたり、あるいは黙りこくっていたりと、私なんかの知らない風景や匂いや空気のなかで生活しているんだな~と、感じいったりする。そうこうして、二度ほど機内食を飛ばされて目がさめると、もうそこはかの地の上空数百メートルだ。今度は一気に、普段の私にはなじみのない人の顔や会話、物の形や色、何か食べ物の匂いや空気の匂いが生々しく感じられる世界に突入する。
吉永先生は、お聞きしたことはないが、もちろん先生がその場で見たものの形や色や匂いを描かれているのだと思う。いまだ私は行ったことも見たこともない西域や敦煌、ペシャワール、カーブルの人や物や動物や川や山、一方私も住人であるので非常になじみの深い上六や千日前、ジャンジャン横丁や住吉町などの大阪の町。特に私かそこに住んでいる上六や高津の町の風景などは、公団住宅の壁といい、ネオンが灯るまえのホテル街の静けさといい、夏の夕暮れ前のじとっと汗ばむような空気感といい、子供のころの体感的な思い出とともにリアリティをもって迫ってくる。きっとシルクロードも吉永先生の絵を見て感じたままの感覚が、テレビでみるドキュメンタリーや雑誌の写真などよりもはるかに生の体感や思いに近いんだろうなと思う。
しかし、そのような感覚だけでは吉永先生の絵を見た思いは表現できない。先生の絵には見たり、触ったり、感じたりしている今現在とは全然単住の違う時間軸を感ぜずにはいられない。バーミヤンの空を見ても、トルファンの空を見ても、天下茶屋の銭湯の煙突の上空を見ても、天満橋の橋の上を見てもやはりあの雲がある。木々に埋もれた公園の絵の中にも木と木の間からあの雲たちが覗いているのだ。なにか、魚かクジラの一家のような独特なあの雲たちが、どことなく瓢々とした感じを漂わせて浮かんでる。まるで世界どこといえども、何万年たてども変わらぬ、雲の姿をした何かが、この大地とそこに根付く人々や、その人が作った物を見てきて、また、これからも見ていくんだといわんばかりに。
吉永先生の絵は、ちょうどSF映画のオープニングで、カメラが、地球を見下ろす紺碧の宇宙から一気に地球上のある場所や人間にズームインするような、あるいは私か飛行機に乗るとき味合うあの感覚のように、日々繰り返される人の営みや、今ある物の姿と、一方でなにか理解を超えて大きく、よどみなく流れる時間感覚の両方を思い起こさせてくれる。突拍子もない鑑賞かもしれませんが、絵にもいろんな見方があるもんだとお許しくたさい。それはそうとあのシルクロードの絵で木に登っている人たちはいったい何をしてるんだろう。雲をみてるのかな~。今度先生にお目にかかったとき聞いてみよう。
(抹式会社カナタ)

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