2003年9月5日(木) 西日本新聞 

2003年9月5日(木)西日本新聞[PDF:508 KB]

文化の残影 色濃く

秘められた宇宙観にひかれ

◇文化◇

遙かなる飛天への旅

吉永邦治

バーミヤン遺跡が世界遺産に登録されたというニュースは、記憶に新しいが、私が訪れた一九七七年頃の、アフガニスタンの印象は、インドやペルシャ、ローマ、ギリシャの文明が流入し、東西が結ばれ、文明の十字路にふさわしい古(いにしえ)の雰囲気に満々た美しい国であった。バーミヤン渓谷の警官も、ポプラ並木が風になびき、コスモスが咲き乱れ、済んだ空気のなか、ロバの鳴き声がこだまするのんびりとした情景があった。
高さ一〇〇メートルの断崖に多くの石窟(せっくつ)が掘られ、その中には塑像や美しい壁画が残されていた。その一角、東側に三十五メートル、西側に五十五メートルという奈良・東大寺の大仏をはるかにこえる巨大な大仏が堂々と静かに佇(たたず)んでいた。この西側の磨崖仏の天井部分に、異なった文化の残影が色濃く反映された天人一体と天女二体からなる飛天が見られた。この飛天は、この地域特有のものであるが、二〇〇一年三月、タリバン政権によって東側の大仏の天井に描かれていた太陽神スーリヤとキンナラとともに同時にすべて粉々に爆破されてしまった。バーミヤンは、中央アジアや中国辺境地域の風土のなかで、飛天が伝播(でんぱ)し天界していく奇跡をみるうえで、非常に重要であっただけに残念でならない。

さて、私の心をとらえて離さない飛天に導かれた世界は、若き日、ヨーロッパに旅立った日から始まる。その帰路、私は中近東からインドに立ち寄り、違う世界に触れたのがきっかけで、後に、高野山に登り、五年あまりのあいだ修行僧のような生活をしながら山上の大学で密教や仏教美術を学んだ。弘法大師空海によってもたらされた曼荼羅(まんだら)などを研究するうちに、その図像のなかに、天空を背景に輝くように描かれた飛天に出合い、その秘められた宇宙観に魅かれていった。大学時代から、飛天をもとめてアジア各地への旅をつづけるうち、私自身のなかにアジアの民の心が大きくふくらんでいった。
そもそも飛天は、インドでは、ガンダルヴァと呼ばれ、八部衆のひとつであるインドラ(帝釈天)につきしたがい奉仕している半神である。八部衆は、仏教においては、釈迦の教理を保護し、仏教の精神を底の部分から支える存在である。インドの飛天の姿は、はじめは、単独の男性のような姿であるが、後には、天人、天女が寄り添ったミトゥナ形式、すなわちガンダルヴァと配偶者であるアプサラスの飛天一対として表されている。また、ガンダルヴァと同属である小さな翼と長い尾羽で飛翔(ひしょう)するキンナラもみられる。

やがて、飛天も様々な姿やかたちが融合し生まれ変わってシルクロードから中国辺境地へ伝えられていくのでであるが、タクラマカン砂漠の西域北路のオアシス都市クチャのキジル石窟やミーランの遺跡では、ギリシャ・ローマ風の天使など翼や天衣とを併せ持つ過渡期の飛天もみらえる。また一方、東南アジア方面にも東漸していった。
一九八七年、世界の文化遺産に登録された敦煌の莫高窟には、二百七十窟あまりに四千五百体もの飛天が、五絃琵琶などの楽器をもち、立体感をもたせ描かれている。なかには、ひとつの窟に百五十体もの飛天がみられる。
中国大陸に近づくにつれ、飛天は、神仙、仙人の姿やかたちと重合し、雲に乗って流れるような天衣をまとった細身の飛天が、飛翔するようになる。
大きなうねりをもった飛天の流れは、大陸から直接、また一方、朝鮮半島を経て日本へ翻転してきた。日本の人びとは、金色に輝く仏像とともに飛天の姿に、人智を超越した仏国土があることを知り、その香りや音色をもった飛天、楽天を三重塔の塔婆、寺院の灌頂幡(かんじょうばた)などに刻みこんだ。奈良、法隆寺金堂壁画などの飛天をみると、東寺の画家たちは霊芝雲(れいしうん)には、生気あふれる生命を、天衣には、光輝く太陽光線を、童子形の飛天には、再生をイメージし、不死や長寿、多産を形象化していったように思われる。
日本各地においては、経典や説話集や物語のなかに飛天が脈々と現在まで伝えられているが、よく知られたもののひとつに「三保松原」の説話がある。
私にとって飛天との出会いは、運命的であるが、これからも魂の心のふるさとを求める遙かな飛天の旅は続き、命果てるまで描きつづけていきたい。
(鹿児島県出身、画家)
◇吉永邦治展は九日まで
福岡市・天神の大丸アートギャラリーで開催中

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