川内市立図書館  「文化川内」 第18号

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特別寄稿

小さな旅の始まり

吉永邦治

人間は、環境によって育てられるというが、まさしく川内の風土は、私を大きくつつみこみ、心と体のなかに、青い空、そよ風、南海に沈む大きな夕日など、自然の美しさ、太陽の輝きを根づかせてくれたと思う。特に、川内川の水の流れは、東シナ海に流れ込み、やがて黄河、長江、メコン、ガンジス、インダス、チグリス・ユーフラテス、ナイルなどの河の水と大海でまじわりひとつになる。この川の流れに壮大な地球を想像したりしたが、後年、ユーラシア大陸を西から東アジアにかけて、生涯のテーマである飛天世界を求めて旅を続けることになったのは、この川内の地なくしては、語り得ないことである。
今から五〇数年前の川内というのは、田園の中にレンガ工場とエントツがみられるだけのなんの変哲もない町で、レンガにするための年度を田畑から堀り、牛車で運んでいる、のんびりとした風景があった。当時、私の家のまわりには、粘度がありあまるほどあり、牛、うま、にわとり、うさぎ、カエルなどを粘土で作ったり、彫刻をしたり、大きなカシの樹の上にヤグラを組み樹上の家を作ったりして、細目を集めては椅子を作ったりして、暗くなるまで駆けづりまわって遊んでいたという懐かしい記憶がある。
その頃、家には、数冊の雑誌があるぐらいだったが、その中に偶然、男の人がすわって考えている彫刻の写真とスケッチなどをみつけた私は、それにくぎづけになり、飽きることなくながめていた。そして、粘土で模造しようと思い、写真のとおり作ってみたが、なかなか思うようにいかなかった。そのうちこの彫刻家が、ロダンであることを知り、パリにあるロダンのアトリエをいつか必ず訪ねてみたいと思うようになった。
この少年期の小さな出会いは、大いなる異世界への旅立ちでもあった。西欧世界へ旅をして、直後この目でオリジナルの作品をみてみたいという思いは募るばかりであったが、ふとしたきっかけでベルギー出身の神父さまに出合い、その夢は実現することになった。
欧州への始まりは、この出会った神父さまの国をめざして、リュックをかついで一人、旅立っていった。が、一九六九年の当時は、一ドルが三六〇円の時代で、やっと一般の海外旅行が解禁になって間もない頃であった。欧州についてのガイドブックは少なく、とにかく日本円からドルに交換するだけでも大変で、日本銀行にいって渡航の目的を告げ、やっとの思いでドルを手に入れ、日の丸のついたリュックに最低の生活ができるだけのものを詰めこみ、まるで北極探検に命をかけて行くような覚悟と出で立ちであった。せっかく行くからには、ただヨーロッパの風景を得やスケッチするだけでなく、遺跡や教会や美術館などをめぐり、そこの風土や歴史と時代の空気や気配を感じたい。都会の町の市場のなかにあふれる生活の匂い、美術館という大空間にかけられている油彩画、その描きこまれた細部の筆づかいに触れるという「見て、触れて、感じる」そんな旅になればと思い、期待と不安が交錯するなかでの出発であった。
ヨーロッパへの第一歩は、ベルギーで、かつて油彩画でみたフランドル地方の町の教会や風景が、そのまま目の前にひろがっているのをみて、何か自分が絵のなかにいるような気分であった。神父さまに案内された教会や美術館などで、ヤン・ファン・エイク兄弟、フェルメールなどの画家や作品を知った。「祭壇画」や「聖母像」などキリストやマリアを題材に描いた作品には、神聖ななかに、豊饒な神の出現がリアルに描写されていた。「室内の風景」などを描いた作品には、テンペラと異なった油彩でなんかいも塗りこまれ、ガラスかと思うほど透きとおるような表現で、宝石のようにキラキラと輝く色光と共に日常の生活の様子が表されていた。実際に教会を訪ねると、ステンドグラスから光が差し込み、そこには影もなく透明な純粋で満たされた神の世界が漂っているのであった。
一方、私は小さい頃より、インテリアや建築に興味をもっていたので、その方面も学んでみたいと思っていた。南ドイツのドナウ河沿いにウルムという町があり、そこのウルム造形大学で学んでみたいと訪ねてみたが、運悪く休校中であった。このウルム近くの美しい村、ブラウボイレンに在任されていたドイツの婦人に、思いもかけず、造形作家、ロッテ・ロッセリ先生を紹介され、そこの工房で住み込み学ぶこととなった。先生のもとで、造形の基本からたたきこまれ、絵画、建築、陶芸への発展の糸口をみい出していった。
このドイツを足場にして、パリのロダンのアトリエ訪問を皮切りに、コルビュジェ、クレー、ボッホ、セザンヌ、ピカソ、ガウディ、レオナルドなど、芸術家や建築家がかつて生活した、また、東寺活動し製作していたスペイン、イタリア、ギリシアなど北から南まで鉄道を利用して訪れ、現地に立って、触れて、考えてという旅をしてまわった。
時の流れのなか、ヨーロッパをあとに、帰路、エジプトから中近東へ、そして、インドに立ち寄ることとなった。インドには、聖も俗も、美しいもの汚いもの、動物と人間と植物も、生と死も分別することもなく、漠然と一体となった世界があった。そこには、ヨーロッパと異なった風気や時、すべて表現しがたいものが流れているのであった。
インド各地を行脚すると、太陽が昇るころになると人びとは起き出し、ガンジス河の川辺に集まり、朝陽に手をあわせておがむ光景がみられる。ゆったりと流れている水面に蓮華の花を散らし、そこにサリーを身につけたまま見ずに身体を浸すと、サリーの極彩色の布が泥水と化した川の流れとひとつになり、彼方へと解きほぐされていく。岸辺の階段上には、行者共に、天界を生きることを願い、呪文をとなえ合掌している姿がみられる。さらに遠くをみると、紅くまい上がった土ぼこりのなか、五体投地をくりかえしながらガンジス河をめざしている光景がある。日が沈むと、満点の星空を見上げ、星空に思いをはせている人びとをみながら、私は、歴史とは、文化とは、人間とは、生きるとは何か、このインドの大地の果てしない行脚のなかで意識すら希薄になっているなかで施策の時をもつこととなっていった。
あるインドの街角の路上に疲れはて座り込んでいた時、糞帰衣に身をつつんだ僧侶に出会った。この僧侶との出会いにより、帰国して後、高野山に登り、五年あまりのあいだ、修行僧のような生活をしながら山上に住み、そこにある大学で密教や仏教芸術を学んでいった。弘法大師空海によって改ざんされた高野山には、かつて旅したインドとよく似た匂いがたちこめていた。様ざまなアジアの歴史やチベット語やサンスクリットの言語を研究するうち、曼荼羅や図像にも興味をもち、極彩色に描写されたなか仏陀や大日如来などを中心に飛んでいる飛天に出合った。ヨーロッパ各地の教会を訪ね歩いていた時、大聖堂のドーム天井に、多くの天使、キューピッドが背に翼をつけ楽器を奏して飛んでいたが、天空を翼のかわりに天衣をもち、蓮華を散華し讃嘆しながら自由自在に飛んでいる華麗な飛天をみて、その後、飛天とは何かをテーマにして、その源流を訪ねての旅と、あわせて文献による探索が始まったのである。
日本では、ただ空を飛んでいる天人を「飛天」と称しているが、インドではガンダルヴァと呼ばれ、古代インドの神話においては、地上に生きるものにはなくてはならない光彩、水などの存在であるという、のちに飛天は、仏教を守護するようになり、インドラ神(帝釈天)半神として、表され奉仕する役割を荷う。この飛天も、インドからシルクロードや中国の辺境地へ伝播していくうちに、その姿やかたちが変化しながら融合し、大きく東洋の飛天として生まれかわっていく。各地の遺跡で、飛天をみていると、宙に美しく飛んでいる姿に、永遠なる生命の力が宿っているように感じ、私の心は大きくふくらみ、はるかなる飛天に魅了されていった。
このような歩みをもつ私は、川内川近くに生まれ、幼少期を過ごし、やがてヨーロッパへ、高野山へ、東洋各地へ民族の芸術を求めての旅を続けて五十八年である。が、現在は、瀬戸内に面した淡路島を望む、明石のアトリエで、宇宙と生命とが密接につながっている飛天世界の研究や、人間と自然とがひとつになり相互に生かしあっている東洋をテーマにして油彩画、デッサン、墨彩などを描き続けている毎日である。
今は夏、早朝、美しいアサガオが庭に咲く。このアサガオも、無明の闇、光のない気配の時をすごしてこそ、やがて一条の朝の光につつまれた時、美しい花となり、咲きはじめる。こう思うと今まで生きてきた五十八年の人生は、咲く前の悠久なる時の一瞬であり、次なる小さな旅の始まりなのかも知れないと思うのである。これから先も、私なりの花が咲ききるまで、孤独な作業をくりかえし、夢に向かっていきたい。

吉 永 邦 治 氏 年譜略歴

  • 略歴

一九四四年  鹿児島県川内市に生まれる。
一九六五年  東京桑沢デザイン研究所を卒業。
一九六九年  ドイツ留学 ローマ・ギリシャ・西洋美術・建築・陶芸など学ぶ
一九七五年  高野山大学文学部仏教学科を卒業。
山本智教博士(高野山霊山館々長)に師事。絵画は生口長男画伯に師事。
インドをはじめシルクロード各地や東南アジアを旅し多くの飛天を描く。
現在      画家・建築士・大谷女子短大助教授

  • 著書

「飛天の東斬」「飛天」「シルクロード素描作品集」「インド素描作品集」「飛天の道」ほか多数

  • 画歴

ベルギー、ブリュッセル、東京、大阪など各地で個展を開催。川内市歴史資料館、南溟館(枕崎市)など全国各地に作品収蔵。

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